彼女は15センチ浮遊している。(1)

 生まれて十九年、自分に霊感はないと信じていた。だが今日になって、それは間違いだったかもしれないと思った。
 彼女を見た時に、明らかに生きている人間じゃないと思ったからだ。そして直感した。自分には霊感がないんじゃなくて、たまたま幽霊とか妖怪の類に遭遇したことがなかっただけなのではないかと。
 なぜなら彼女は地上から浮遊して、そこに立っていたのだ。
 俺は少し離れたところから、大学のキャンパスの端っこに立つ彼女を観察していた。彼女の足の裏と地面の間には奇妙な空間が空いている。もちろん向こう側は丸見えだ。彼女は誰かを探しているのか、困ったような顔できょろきょろと辺りを見回している。行き交う学生の群れの中から頭一つ飛び出ているから、彼女の姿はやけに目立った。
 そしてそんな不思議な彼女の前を学生たちは素通りしている。近すぎて気づいていないのかと思って、即座にその考えを打ち消した。少し離れた場所にいる俺の周辺でも、彼女に気付いた様子の者がいないからだ。
 つまり彼女は俺にしか見えていないのだ。
 俺は腕を組んで考えた。こうゆう場合の対処はどうしたらいいのだろう。試しに話しかけてみるか?しかし彼女が他の人間に見えていないのなら、俺は独り言を呟く怪しいやつに思われる。授業の合間の人が大勢行き交うこの時間、知り合いに見られないとは限らない。それだけは絶対にイヤだ。
 それにマンガとか小説とかのセオリーに従えば、このてのものに関わったらロクな目に遭わないと相場が決まっている。厄介ごとには巻き込まれたくない。触らぬ神に崇りなしってやつだ。相手は神サマじゃなくて幽霊っぽいけど。
 踵を返して図書館に向かおうと顔を上げた時、しまったと思った。こちらを向いた彼女と目が合ってしまったのだ。
 何も見なかったフリでもしていればよかったのだろう。だが俺は馬鹿正直にも、思ったことをそのまま表情に出していた。つまり彼女のことが見えていると。
 彼女は満面の笑みを浮かべると、こちらに向かって駆けてきた。もちろん彼女の足は宙に浮いたままだ。幽霊だったら走るんじゃなくて、飛べばいいのにと俺はどうでもいいことを考えていた。
 というか、どうでもいいことなんか考えてないで逃げろよ、俺。
 気づいた時には、彼女は俺の目の前に立っていた。浮遊しているからか、女なのに百八十cmある俺と目線の高さが同じくらいだった。彼女の足元をちらりと見下ろす。やっぱり浮いている。
「ね、あなた私のことが見えるの?」
 彼女はいかにも幽霊が言いそうなベタなことを聞いてきた。ここまで眼前でまじまじと見といて今更無視するわけにもいかない。俺は渋々と頷いた。
 彼女は俺が頷くのを確認すると、ぱっと顔を輝かせてはしゃいだ声を上げた。
「よかったー。なんか他の人たちには見えないみたいで困ってたんだ」
 俺はそっと周りを窺った。俺以外には彼女の姿は見えていないようだが、声はどうなのだろう。やはり聞こえていないのだろうか。聞こえていたら、俺は腹話術で女の声を出しているただの変態だ。
「あ、見えないだけじゃなくて、声も聞こえないみたいだよ」
 つくづく俺は考えていることが顔に出やすいらしい。彼女は先回りして、俺の疑問に答えてくれた。
「だからこんなとこで立ち話してたら、君が変な人に思われちゃうよね。ね、あんま人がいないとこってどっかある?」
 機転が利く幽霊なんているのものなのか。何となく、幽霊は自分勝手なものだと思っていた。俺は脳内にキャンパスの地図を広げて、彼女を目線で促して歩き出した。
 彼女は俺の隣りを歩いた。その足は宙を踏んでいる。宙を踏むという表現が正しいのかわかないが、空中を歩いているようにしか見えないのだ。
 やがて俺は校舎から離れて、木々が生い茂る遊歩道に出た。途中で設置されたベンチに腰掛ける。この先にはグラウンドとテニスコートくらいしかないから、午前中の授業の合間の時間にここを通る学生はほとんどいない。
 彼女は俺の隣りに腰かけた。やっぱり浮いている。空気椅子みたいに足腰に負担がかからないのだろうか。
「で、俺に何か用なの?」
 俺はようやく彼女に向かって問いかけた。ここに来るまでは、人の目を気にして、並んで歩いているのにずっと無言だったのだ。彼女も俺に気を遣ってか話しかけてこなかった。
「んー君にってわけじゃないけど、他に見える人いなそうだから声かけちゃった」
「あんた幽霊なの?」
 俺の問いに彼女は首を傾げた。「わかんない」
 つい眉を顰めてしまう。自分が死んだかどうかくらいわかるもんじゃないのか。
「なんかね気づいたらここにいたんだけど、それまでどうしてたとか全然覚えてないんだよね。で、誰かに聞こうと思ったんだけど、誰も気づいてくれないし、なんかよく見たらちょびっと浮いてるし」
 そしたら君と目が合った。そう言って彼女は、にっと笑った。
「ねえ、何で私こんなことになってるんだと思う?」
 そんなこと俺に聞かれても困る。が、さすがに何も意見を出さないのは悪い気がして、思いついたことを言ってみる。「まあ、普通に考えて死んで未練が残ってるとか?」
「やっぱり?でも何にも覚えてないんだよね」
 はあ、と溜め息を吐く彼女は正直そんなに困っているようには見えない。俺という話し相手を見つけて、安心したのかもしれない。話し相手になるだけなら別に構わないのだが、それで彼女が成仏できるかはわからない。
 彼女も同じことを考えたようで、難しい顔をして唸っている。「そうだ」と閃いたような明るい声に、なぜか俺はイヤな予感がした。
「ね、私の記憶を思い出すの手伝ってよ」
 イヤな予感は的中した。こんなところで運を使ってしまうなんてもったいないことをした。
 彼女は俺の心中などいざ知らず、自分の思いついた案に満足していた。前言撤回。幽霊はやっぱり自分勝手だ。
「まず記憶を思い出して、私がどこの誰だかわかったら、きっと何が未練なのかわかるはずよね」
「ちょっと待て。自分がどこの誰なのかもわからないのか?」
 彼女は何を今更というように頷いた。俺は頭を抱えて呻いた。
 せめて俺が生前の彼女と知り合いだったなら、まだ探す糸口はある。しかし俺は彼女に見覚えがない。初対面の記憶喪失の幽霊の身元探しなんて、シャーロック・ホームズだってお手上げだ。
 一方の彼女はあっけらかんとしていた。
「大丈夫。ここに現れたってことは、きっと何かあるんだよ。君、ここの学生でしょ?とりあえず一通り案内してもらえないかな」
 一応、今日の残りの授業は代返で何とかなる。彼女につき合って大学内を周ることは可能だ。だが彼女につき合う義理はない。
 ほんの数秒考えた後、俺は立ち上がって彼女についてくるように言った。触らぬ神に崇りなしだが、無視した幽霊には崇られそうだ。
 とりあえず俺は、食堂とか掲示板前とか学生なら一度は使ったことのありそうな場所を手あたり次第回ってみた。その間も彼女は相変わらず地面から浮遊して、俺の隣りを歩いていた。飛ばないのかと聞いてみたら、歩く方が落ち着くと返された。意外と幽霊なんてそんなものなのかもしれない。

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